new50 > 閱讀 > 專欄 > 02: 關於結婚這件事

Akira

日本知名連鎖餐飲企業專案經理

Like A Family

02: 關於結婚這件事

2021年三月(開始寫這篇文章的時間點是上個月),日本札幌地方法院裁定,現今日本法律制度不允許同性婚姻登記,是欠缺合理基礎的歧視性差別待遇,違反憲法所保障的平等原則。札幌地方法院的這個違憲裁定,被國際媒體報導為日本首例。而目前亞洲唯一承認同性婚姻的,只有台灣。

我和我的夥伴Hikari,在生理上屬於不同性別。也許刻意這樣說明會顯得很複雜,但也就是說,我和Hikari在現行日本法律制度下,是可以結婚的。
但是我們沒結婚,我想未來也不會結婚。

我和Hikari,因為沒有結為法律上的夫妻而感受到阻礙的狀況,只發生過一次,就是在Hikari中風動完手術的時候。那時的Hikari躺在加護病房中,身上插著許多管子,院方規定若非法定親人,是不能進入加護病房探視的。(不過因為我去醫院拜託了好多次,再加上有Hikari的意識表明,最終,醫院總算是允許我進入加護病房了。在當時,幾乎不能動,又不能說話的Hikari,究竟是如何「意識表明」的呢?想必是用盡了全身的力氣,拼了命地表明了吧。我也衷心感謝那天接受了Hikari的意識表明而讓我進入加護病房的醫護人員。)
在那之後,我再也沒有遇過因為我不是Hikari的法定親人而不能進去的地方了,包括醫療、復健、福利機構、區公所的工作人員、小孩的學校老師(Hikari是單親家長),以及現在留職停薪中的Hikari職場上的同事們,大家都認同我就是Hikari的第一支援者。而為了支援並全面照料Hikari的生活,我住進了Hikari的家裡,孩子們一開始當然認為我這個人很可疑,但還是努力地接納了我;此外我也一直很感謝孩子的同學們,對於我這個突然冒出來的人物,還能夠見怪不怪、很有禮貌地打招呼。有人說東京是一個冷漠的城市,鄰居不會互相打招呼,人們只會自掃門前雪,對周邊的人物漠不關心。我認為其實不然。我所認識的東京,是一個能夠包容各種人事物多樣性的城市,是一個寬容的城市。

Hikari和他的孩子們,再加上我的話,看起來就像親子;兩個大人(異性)再加上小孩子,這個組合怎麼看都會讓外人覺得是一個只有自己人的「一家人」,但我們(至少我),並不是。該怎麼形容呢,我們就是「一個團隊」。
我也曾經想過,如果Hikari和我結婚的話,會變成什麼樣子?我想,跟現在的生活應該不會有什麼改變,我們之間的關係也不會改變。那這樣一來,就算我們結婚了,也應該不會有人發現吧。
如果說我是個有錢的企業家,那讓Hikari和孩子們變成我的法定親人,讓我可以留一些遺產給他們,那也不錯。但可惜,我並沒有那麼多的財產。

把「結婚」這個制度,限定為一定要是異性之間才能辦理的契約,硬要定下這種規定的人們,到底是為了要保護什麼?希望這些人可以再一次好好地想清楚,是想阻止同性伴侶去探望躺在加護病房裡的另一半嗎?還是想要阻止同性伴侶擁有共同的財產?
就算他們不能結婚,也沒有人能夠剪斷兩人相愛的羈絆。(實際上,有許多伴侶被迫要分開的歷史故事,但是在現在這個時代,我們可以團結起來,變得更強大。)無論我們與伴侶間是異性還是同性,只要相愛,就能一步一步跨越制度,攜手到老,勇敢地活出屬於我們的時代。
札幌地方法院,點出了這次訴訟的意義和本質,我必須要稱讚這次札幌地方法院作出此等裁定的勇氣。

翻譯 | 庄司佳代   編輯 | 李盈瑩

Like A Family

02: 結婚について

2021年3月(この文章を書いている時点で先月のことだ)、日本の札幌地方裁判所は、現在の日本の法制度において同性どうしが結婚できないのは、合理的な根拠を欠いた差別的な扱いであり、法の下の平等を定めた憲法に違反するという判断を示した。日本の裁判所として初めてのことだったので、世界中のニュースで報じられた。現在、アジアで同性婚が認められているのは台湾だけだ。

ところで、ぼくとパートナーのヒカリは、互いに異なる生物学的性を持って生まれた。ややこしい表現をしてしまったけれど、要は今の日本でも、ヒカリとぼくは結婚することができる。
でも、ぼくたちは結婚していないし、なんとなく今後もしないような気がしている。

ぼくがヒカリの法的な家族でないことで困ったことは、一度ある。手術直後のヒカリがたくさんの管につながれて脳卒中治療室に入院していたときに、病院から、家族でないと見舞いに入れないと言われてしまったのだ。(最終的には何回目かの訪問時に、ヒカリ自身の意思表示によって入れてもらえた。ほとんど体を動かせず、しゃべれなかったヒカリの「意思表示」はどんなものだったのだろうか。ただ、必死だっただろう。それを受け取ってくれたあの日の病院の受付のひとに、ぼくは心から感謝している。)
それから先、ぼくは、ヒカリの法的な家族ではないからといって、場に入れてもらえなかったことは一度もない。医療や福祉でお世話になってきた沢山の人たち、ヒカリの子どもたちが通う学校の先生(ヒカリはひとり親だ)、現在休職中のヒカリの職場の人たちなど、だれもがぼくをヒカリの第一サポーターとして認めてくれた。生活をまるごと支えるためにぼくがヒカリの家に住み込むことにしたとき、子どもたちは当然いぶかしがったが、がんばって受け入れてくれた。子どもたちの友だちも、ある日突然現れたぼくに明るく挨拶してくれて、いつもありがたく思っている。東京は、人が互いに無関心で冷たい街といわれたりもするけれど、多様性がつぶされない、寛容な土地でもあるのだ。

ヒカリと子どもたち、そしてぼくが一緒にいれば、親子に見えると思う。皮肉なことに、両性の大人が揃っているぶん、親子水入らずのとき以上に「家族」っぽいはずだ。だけど、ぼくらは(少なくともぼくは)そうじゃない。言わば「チーム」だ。
ぼくはあるときふと思った。もしヒカリとぼくが結婚したら、なにか変わるのかな?――たぶん、生活は変わらないし、ぼくらの関係も変わらないし、だれも気づかないだろう。
もしもぼくが資産家だったら、ヒカリや子どもたちと法的な家族になっておくといいかもしれない。相続などでぼくの財産を分けてあげられるからだ。しかし、残念ながらぼくにはたいした財産がない。

「結婚」という制度を、異性間の契約に限定すべきだと考えるひとたちは、いったい何を守ろうとしているのだろう。ぼくは、そのひとたちに、もう一度考えてほしいと思っている。同性どうしで支えあうひとたちが、パートナーがいる集中治療室に入ったり、財産を共有することを、止めたいですか。
たとえ「結婚」から締め出しても、愛し合うひとたちの絆を断つことはできない。(実際には、断たれたひとたちの歴史が沢山ある。だけど今の時代には、ぼくたちは連帯して強くなることができる。)パートナーたちは、制度をずんずんと乗り越えて、勇敢に誇り高く、手を取り合って生きていく。性が同じであろうと異なろうと。
ぼくは、札幌地方裁判所の、ものごとの本質をつかみ出した勇気に称賛を惜しみたくない。